9/09/2015

運命のすれ違い

1974年、ゲイリー・キルドールは、インテルの8ビットCPU, 8080用にオペレーティングシステムを開発、販売した。 そのオペレーティングシステムが、CP/Mだ。これはALTAIR8800の半年前だというから驚く。 キルドールはその後、Z80など他のCPUにもCP/Mを作っていた。CP/Mは、8ビットパソコンの標準OSとして、高いシェアを獲得し、 キルドールはスポーツカーや個人用ジェット機を所有していたという。

IBMがパソコンを扱おうとしたとき、当然CP/Mを開発していたDigital Resarch社が浮かぶ。 しかし、IBMが実際に交渉したのは、マイクロソフトだった。 「新・電子立国1 ソフトウェア帝国」では、IBMは勘違いしてマイクロソフトに交渉に行ったと書いている。 NHKはIBMのジャック・サムズ、マイクロソフトのアレンとゲイツを訪れインタビューしているが、 それによると、

  • サムズは一年以内にIBM PC用のOSを必要としていた
  • サムズはマイクロソフトがCP/M用のBASICを販売していたことから、CP/Mを開発したのもマイクロソフトだと勘違いしていた
  • ゲイツはとても一年以内にOSを開発できないので、サムズにDigital Reseach社に相談することを薦める

キルドール自身が取材に応えて語っている。

ある日ゲイツから連絡があり、「IBMがマイクロソフトにきて、CP/Mをライセンスできるかどうか聞いている。 (IBMとの商談を逃したくないので)そちらを紹介した」と言った。 実際にIBMから連絡があり、IBMは打ち合わせを申し込んできたが、その日自分は用事があり、妻と話すように伝える。 IBMは約束どおりに訪問し、キルドールの妻と会うが、彼らはそこで話をする前に機密保持の契約書へのサインを求める。 それは、IBMとしてはごく普通のことだが、キルドールの妻はこれを拒否し、打ち合わせは成立しなかった。

キルドールは、仕事一辺倒ではなかったようで、CP/Mの売り上げで、スポーツカー10台以上、自家用ジェットも所有しており、 またアポイントが取れないので有名であったらしい。彼にとっては、巨人IBMも他と同じだったのだ。 IBMはなんとかキルドールと交渉しようとし、自宅にも訪れる。詳細な経緯は不明だが、 キルドールは「IBMはCP/Mのすべての権利を25万ドルで買いたがっていたが、それを断った」と述べている。 キルドール(Digital Research)にとって、CP/Mは稼ぎ頭で、それを完全に手放すことはあり得なかった。 その結果、IBMは再びマイクロソフトに相談することになる。

ゲイツとアレンは、キルドールとまったく逆で、なんとしてもIBMとの商談を成立させたかった。 しかし、一年以内にIBM PC用のOSを作れない、そこで、アレンが思い出したのが、 同じシアトルにあるシアトル・コンピューター・プロダクト(SCP)社の86-DOSだ。 86-DOSは、ティム・パターソンがCP/Mのクローンでティムが独自に開発していた。

ゲイツ、アレン、ケイ(西和彦)それにスティーブ・バルマーが集まり議論していたときに、 有名な西の「やろう」が出てくる。ペンキの塗り直しでもなんでも良い、とにかくやろう、 マイクロソフトはOSを提供しよう、ということになった。それで、のちのMS-DOSとなる。 Digital Researchはその後1982年にIBM PC用のCP/M-86を販売するが、MS-DOSを覆すことはなかった。

IBM PCがデジタル・リサーチでなくマイクロソフトにOSの開発を委託した経緯については、多くの書籍、Web、記事で、 「そういうことがあったらしい」と書かれている。そうなった主な理由は、当事者であるキルドールが、 みずから語っておらず、取材も受けていなかったからに違いない。 自分はこの内容について、アレンの「アイデア・マン」など信頼すべきリソースを参考にしていたが、 1997年にNHKスペシャルとして放送された「新・電子立国」のシリーズの書籍を読み、それが実際に 起こった出来事であることを確認した。NHKのクルーは直接キルドールにインタビューしており、 キルドール自身の「マイクロソフトはCP/Mを盗んだ」という言葉を映像と書籍に記録している。 NHKのクルーが取材を終えて、日本に戻る前に、キルドールは急死し、書籍にはそのときの新聞記事の画像が 貼られている。奇しくもNHKはキルドールの最後の取材者となったのだ。

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