9/14/2015

忘れられたもう一人の生みの親

「Macintoshを創ったのは誰か?」と聞かれたら、多くの人が「スティーブ・ジョブズ」と答えるだろう。 しかし、「Macintoshの名付け親は誰か?」と聞かれて、わかる人は少ないだろう。 答えは、ジェフ・ラスキンだ。しかし、文献を調べると、ラスキンはただの名付け親ではないことが わかる。少なくともMacintoshプロジェクトの生みの親であるのは間違いない。 でも、それも不十分だ。

ジョブズがXerox PARCを訪問して、「これは宝の山だ」と興奮して、開発したのがMacintoshだと 言われている。そのことはもちろんアイザックの「スティーブ・ジョブズ」にも書かれている。 しかし、そこにはなぜジョブズがPARCを訪れることになったか書いていない。

それについて、「マッキントッシュ伝説」のジェフ・ラスキンのインタビューに書かれている。

  • ジェフはApple IIのマニュアルを手がけたことがきっかけで、ジョブズに誘われ1977年会社ごとアップルに移った(ジェフはシリアル0002のApple IIを持っている)
  • それまでのマニュアルは技術用語と命令口調で書かれていたが、ジェフは理解できる言葉でマニュアルを作成した
  • 製本は、操作をしながらマニュアルを読めるよう、背綴ではなくリングを用いた
  • カラー写真を用いた(当時のコンピュータ業界では広告以外にカラー写真を使うのはまれだった)
  • ジェフは、アップルが力を入れて取り組むべきことは「アプリケーションの品質である」と考え、会社に「ソフトウェア製品の品質管理セクション」を作ることを提案した
  • 1979年、ジェフは会長だったマイク・マークラにMacintoshという製品のアイデアを話した。よく知られているようにこれはジェフの好きだった林檎の名前に由来する
  • ジェフのMacintoshプロジェクトは社内で理解が得られず何度もつぶされそうになる、そこでジェフは、教え子であったビル・アトキンソンと画策して、ジョブズをPARCに行かせた

ラスキンはそうした経緯を説明した後で、「ジョブズがPARCで触発されてLisaとMacintoshのプロジェクトをスタートさせたというのは、まったく作り話で、それが 確認されないままいろいろな書物に引用された」と語る。そして、結局、ジョブズはラスキンを追い出し、ラスキンはアップルを退社することになる。 このエピソードは、同じ「マッキントッシュ伝説」に掲載されているジョアンナ・ホフマンのインタビューとも符合する。

ラスキンに関する情報は少ないが、「実録!天才プログラマー」にもラスキンの詳しいインタビューが掲載されている。 ラスキンは、Apple IIe用にSwiftCardと呼ばれる製品を開発した。 SwiftCardは、「わずか15のコマンドと64バイトのコードで、ワードプロセッサ、情報検索、テレコミュニケーションを装備したパッケージ」を目指したという。 SwiftCardはシンプルさを追求したユニークなシステムで、たとえばファイルを消すということをしない。 SwiftCardについて、ラスキンは「われわれは、古くさいアップルIIe、つまり、1メガヘルツのプロセッサで実行するプログラムをつくり出した。 しかし、このプログラムのユーザにとっては、IBM, マッキントッシュ、メインフレーム、スーパーVAX等よりもアップルIIeの方が実行速度は速いわけです」と 語っている。これは、人間が同時に行う作業は一つで、その作業に専念させるための能力は低くて良いということを言っているのだと思う。 それは逆に言えば、とてつもなく発達した現在のPCは無駄にその能力を使っている、ということと同じだ。 SwiftCardを体験することは今となってはできないが、多分、HP200LXにつながるものがあったのだろうと思う。と書きながら、HP200LXの クロックはいくつだっけ?と気になり調べてみたら80C186(クロック周波数7.91MHz)だった。

WindowsもOSXもLinuxも、UNIXの階層ディレクトリの流れを汲んでいるが、SwiftCardはOSがなく、ユーザがファイルシステムを意識することもない。 2015年の現在もそのユニークさを失っていない。 ラスキンが残した、"Humane Interface"という本をいつか読んでみたいと思う。

ラスキンは2004年に亡くなっている。死因は奇しくもジョブズと同じ膵臓ガンだった。

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