8/30/2015

Wozの魔法使い

僕はジョブズを嫌いだった

「レボリューション・イン・ザ・バレー」の推薦文には、はっきり書いていないが、 自分は以前、ジョブズが嫌いだった。 その頃、自分が持っていたジョブズのイメージは、「技術者であるウォズの仕事で金を稼ぎ、自分を売り込むプロモーター」だった。 ウォズが表に出ない分、ジョブズの存在を苦々しく感じていた。 ウォズが並外れて優れた技術者であること、ジョブズが技術者でないことを自分がいつ どのように知ったか、今は確かめることすら難しくなったけれど、 一つ明確に覚えている記事がある。 それはウォズがApple ][のFDドライブについて、確か1985年か翌年くらいの (こちらも自信がないが)日経バイトに掲載された翻訳記事だと思う。 日経バイトは、技術指向で大変拡張が高く、優れた記事を掲載していて、 「混沌の館」というコラムが有名だった(このコラムが日経バイトに掲載されていたことは 確認しているが、自分が覚えているウォズの記事が本当にその雑誌に掲載されているかは、 現状未確認だ)。 自分はその記事の技術的な内容を理解できなかったけれど、その価値とウォズの資質を感じることができた。 その記事のコピーを取って、時折読み返していたが、失われてしまって残念に思っている。

「アップルを創ったもう一人の怪物」に、FDドライブ、というよりは「Apple ][のDisk II」のことが 詳細に書かれている。それを読んで、昔自分が感銘を受けた記事が読みたい気持ちが高まっている。 「ジョブズが技術者ではなく、プログラムを書いたり、製品を創っていないこと」は、 今や証跡を必要としないと思うが、「スティーブ・ジョブズ」には、ウォズの父親が ジョブズに「お前は、(Apple ][について)何も貢献していないじゃないか。それなのに 取り分が半分ずつって、おかしいだろ?」と詰め寄られたことが書かれている。 ジョブズは、泣きべそをかいて、「わかったよ。それならウォズが全部とって、自分でやれば良いよ」と 言ったのだ。 もし、そこで本当にそうしていれば、今の世界はいろいろ変わっていたことだろう。

取り分について

「アイデア・マン」に、ポール・アレンとビル・ゲイツの間のおもしろい エピソードが書かれている。

ビルはいきなり本題に入った。「これまで、BASICの仕事は、ほとんど僕がやってきたよね。 それに、僕はハーバードを休学するためにいろんなものを捨ててきた」 彼はそう言った。「取り分、今は六対四になってるけど、僕がもっともらってもいいんじゃないかと思うんだ」
「どれだけならいいの?」
「64対36でどうかな?」

結局、アレンはゲイツの提案を受け入れるが、本にはアレンがその時のことを回想した内容が書かれている。 アレンはゲイツと離れてから、「あの時の64%という数字がどこからきたか」考える、そして、次の結論に達する。
「今、自分は最大でいくらまでなら取れるか」おそらくそれがビルの発想の基本だったのだろう。 2対1とまで言ってしまうと、さすがに私が納得しないことはわかっていたのだ。 だから、それより少し譲歩した64%あたりが限度と思ったわけだ。 貢献度に基づいた数字だと彼は言いたかったのだろうが、私は、ここに図書館員の息子(アレンのこと)と弁護士の息子(ゲイツのこと)の違いが 出たと思っている。

ウォズに興味がある方に、「アップルを創ったもう一人の怪物」以外にお薦めしたいのは、斎藤由多加さんの 「マッキントッシュ伝説」だ。 この本の帯には「天才は何を探求していたのか?"創造者"たちによるMacintosh開発秘話!」とある (実はウォズはMacintosh開発には関わっていないが)。 この本は、斎藤さんがアメリカに一人一人取材に行った内容を書き下ろしたものだが、 Macやジョブズについて書かれた書籍の中できわめて優れ、価値が高い、また読んでおもしろい。 著者の斎藤さんは、一世を風靡したシーマンの開発者で、アップルについては、もう一冊、 「林檎の樹の下で ~アップルはいかにして日本に上陸したのか」を書かれている。 こちらは、タイトルどおりアップルの日本語化および販売について、関係者しか知らなかった 歴史を書いたもので、読後感はあまり良くない(それは斎藤さんの責任ではなく、 経緯がすっきりしないものがあるのだ)。

Wozの魔法

「マッキントッシュ伝説」から、ウォズの言葉を引用する。

私の生涯で最高の仕事はフロッピーディスクドライブだと思っています。 二番目がApple ][です。ソフトウェアであれ、ハードウェアであれ、 私が手掛けてきたプロジェクトの課題は絶対的に「小さい」ということです。 いつでも、でき得る限り最小かつ簡潔で完璧なものになるよう毎晩遅くまで努力しました。

記事との再会

スクラップしていたWozのインタビュー記事について、それが日経バイトに掲載されていたことを思い出したので、 掲載号がわからないか調べていたが結局見つからなかった。しかし、それが「バイト・レポート」(BYTE誌の記事の翻訳)であったことが、 わかったので、キーワードを工夫して調べていて、元記事を見つけた。記事は、2回に分けて掲載されている。

上記の記事は、1984年にBYTE誌に掲載されたと書いてある。それが日本語に翻訳されて日経バイトに掲載されたのはいつか 確認できていないが、自分が就職した1985年前後に違いない。もう30年前に読んだ記事だけれど、記事に掲載されていたウォズの 顔写真は確かに日本語の記事でも使われていた。

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