9/30/2015

「佐藤可士和の超整理術」を読んだ

「佐藤可士和の超整理術」を読んだ。「すべては整理から始まる」として、「空間」、「情報」、「思考」の整理について、佐藤さんが実践されている内容が紹介されている。

佐藤さんは、デザイナーだが、鞄を持たない、いわゆる「手ぶら」で外出し、打ち合わせるというエピソードが興味深かった。 最初は鞄を持ち歩かれたいたが、「本当に必要なのか」ということを追求した結果、小物をポケットに入れるだけで十分と判明したという。 佐藤さんが勧めるメソッドがある。それは「毎日鞄に入っているものを出してみて、見直す」ことだ。 そうすれば不要なものがあればわかり、本当に必要なものが選別される。

9/29/2015

ジョブズのこだわり (3)

WozがApple IIのROMを作っていたとき、ジョブズはプラスチックケースや電源の手配をしていた。 ジョブズは、一貫してPCにノイズを発生させる電源ファンをつけるのを嫌がったが、ウォズは電源のことをあまり気にしていないため、 ジョブズはアタリ社に生き、「ファンを使わなくてすむような電源装置を設計してくれる人間を推薦してくれ」と頼む。 そうして紹介されたのが、フレデリック・ロドニー・ホールトだ。

ホールトは、「熱をもたずに、信頼度の高い軽量の電源装置をつくるには、他のマイクロコンピュータ・ メーカがどこもまだ使っていない方法にたよる以外ない」と考え、以前にオシロスコープ用に設計したことのある スイッチング電源装置を採用した。これが、Apple IIに使われ、のちのPCの標準となる。

ホールトの電源装置がうまくいき、コンピュータの大きさがはっきりしてきたので、ジョブズは アタリ社の元同僚で、Apple Iのプリント基板の版下を作ってもらったハワード・キャンティにApple II用の基板を依頼する。 ジョブズのオーダーは、Apple Iのときより強化されていて、「今回はチップとチップとをつなぐ線をきっちりした直線にしてほしい」と求める。 それに対してキャンティは、「私はすっかり腹を立てて、完全さを求めすぎると非生産的になることをわからせよう」としたが、 あまりに頭にきたので「今後二度とあんたの仕事はしない」と告げる。 それでも結局、キャンティは、ジョブズが満足する基板のパターンを作成し、それがApple IIに採用された。

Apple IIIの失敗

Iの後がIIだったら、その次がIIIなのは当たり前だ。なのにApple IIIについては、ほとんど情報がなかった。 昔、雑誌の記事で写真だけ見ていた自分は、どうしてApple IIIの情報が少なく、失敗したのか不思議に思っていた。

モーリッツの「アメリカン・ドリーム」にApple IIIの失敗について詳しい記載がある。 アップルIIは、電源とケースを除くとほとんどウォズが一人で創り上げたものだ。しかし、 Apple IIIは、株式を公開して億万長者があふれたアップル社による、最初の開発製品となり、 それが不幸の始まりだった。経験がないまま、性急なスケジュールがたてられ、設計は「集団合議制」で行われた。 「アメリカン・ドリーム」では、もっともひどいとばっちりを受けたのは出版部だったと書いている。

テクニカル・ライターたちは、技術研究所サイドからの設計変更とマーケティング部からの厳しい出荷要求との間で、苦しい板ばさみになっただ。 ライターたちは、アップルIII発表のやっと九週間前になって実物を見せられたので、締切までに余裕がほとんどなく、書き上げた取扱いマニュアルと 完成したコンピュータとをつき合わせる作業はほとんど無視されてしまった。

開発自体については、できるだけ社内で開発しようとしたが、技術情報が外部にもれるのをおそれるあまり、「独立したソフトウェア会社が アップルIII用のプログラムを開発するのはほとんど不可能」という滑稽な状況になっていた。「系列会社のビジコープ社にさえも、 ビジカルクのデモ用プログラム作成を依頼する書類をつけて、アップルIIIの試作機が届けられたのは、発表のたった二週間前だった」という。

それでもなんとか製品ができて、発表会が開催されたが、その内容がすごい。

アップル社は、ディズニーランドをひと晩借りきり、二万枚の無料入場券を配り、赤い二階建てバスを何台も借り上げて、相愛客を選んだ。

結果は悲惨なものだった。

設計に問題があって、コンピュータが本体に収まらなくなってしまった。このため、主プリント回路基板の上に、不格好な基板をもう一枚載せねばならない 羽目になった。(中略)プリント回路基板の配線と配線の間が狭すぎて、ショートした。(中略)チップがソケットがはずれたり、キーボードの配線が短すぎたりした。

最終的にはちゃんとした製品になったものの信用は損なわれてしまい、発売してから三年後、65000台しか売れなかったという。 とてもジョブズがいた会社で起こったこととは思えないが、ジョブズはこの時の教訓から多くを学んだのだろう。

Macintoshを創った7人

マッキントッシュの開発メンバーは、約20名程度だったと言われているが、「Macintosh Museum」のアンディ・ハーツフェルドの取材記事に「初代Macintosh開発チームの主要メンバー」として7名の写真が掲載されている。

上の写真は、Folkoreに掲載されている画像で、「Macintosh Museum」の写真と順番は違うが、同じ7名のようだ。「レボリューション・イン・ザ・バレー」の表紙は、6名で一名足りないが、それはおそらく、Bruce Hornだと思う。

  • Bill Atkinson(QuickDrawを開発)
  • Andy Hertzfeld(いろいろ)
  • Bruce Horn(Finderを開発)
  • George Crow(電源を担当)
  • Joanna Hoffman(マーケティンブプランを担当、「リソース」の概念を考案)
  • Burrell Smith(Macのすべての基盤となるデジタル回路を設計)
  • Jerry Manock(ケースのデザイン)

この記事では、Jerry Manockについて、アップルの最初のデザイナーとして紹介している。

9/28/2015

ジョブズが追い出した人々

「図解 スティーブ・ジョブズ全仕事」は、ジョブズの仕事について図をつけて紹介しているが、「忘れられたアップルたち」として、アップル(あるいはジョブズ)と離れた人物をコラム形式でとりあげている。

  1. 追われた「マッキントッシュの本当の父」 ジェフ・ラスキン
  2. 燃え尽きた「アップルたたき上げの技術者」 バレル・スミス
  3. 5億ドルをフイにした「かつての同士」 ロン・ウェイン
  4. 詰め腹を切らされた「ジョブズの天敵」 マイク・スコット
  5. ジョブズの逆鱗にふれてしまった秀才 アルビ-・レイ・スミス
  6. 徐々に遠ざかっていった共同創業者 スティーブ・ウォズにアック
  7. 退社させられた「ジョブズの親愛なる先輩」 マーク・マークラ

資料を読むとわかるが、ジョブズは多くの人々を「追い出し」ている。 上に名前がない人物で追加したいのは、まずギル・アメリオだ。いずれ経緯を添えて紹介したい。

9/26/2015

富田倫生さんの「パソコン創世記」を読んだ

「パソコン創世記」(1994)を読んだ。この本はすごい本だ。何がすごいと言って、二段組みであとがきまで453ページとボリュームがすごい。それを富田倫生氏が一人で書き下ろしている。 内容がまたすごい、膨大な文献や情報を引用しており、引用するだけでなく細かくノートをつけている。さらに 同じエピソードについて文献により矛盾がある場合、それを指摘している。たとえば、アスキーを興した西和彦が電話をかけて、ビル・ゲイツに会いに行き、 議論が白熱した件について、議論の長さが「8時間」と書かれているものがあるが、西氏に確認したところ3時間だったようだ、のように書いている。 富田氏は、文献をあたるだけでなく、実際に取材もされたらしい。

あとがきから富田氏の言葉を引用する。

「何の権利があって」となじる深夜の視線に貫かれながら、それでもお尋ねし続けたのは、私自身が何らかの狂気の虜となっていたからだ。ぶしつけな質問に耐え、心を揺らしながらそれでも私の狂気と付き合ってくださった方々に、ただただ頭を深く垂れてお礼とお詫びを申し上げます。
自分は富田氏にははるか遠く及ばないが、Amazonやネットオフなどで古書を探し、複数の図書館から本を借り続け、常時10冊近い本を手元に置いている。自分の自由になる時間の大半を情報収集と読書や調査に充てている。外出していて書店があると、文献を探す。当初は講演の参考資料集めだったものが、今は手段自体が目的化しており、「中毒のようだ」と思う。富田氏が「パソコン創世記」を書かれるに至った気持ちがわかる気がする。最近、同じようにパソコン創世記について、書かれた本を見つけた。脇英世氏の著作で、「スティーブ・ジョブズ」「ビル・ゲイツ」、その他にも関連するものがある。手にとりページをめくると、富田氏のように当時のことを執拗に(としか言いようがない)整理している。脇氏もまた、同じ病に取り憑かれているのかもしれない。

富田氏は、2013年に他界されているが、その作品のいくつかは青空文庫で読むことができる。一度会ってお話がしたかったと思うが、もうそれは叶わない。

  • http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person55.html

富田氏は、青空文庫の立ち上げと運営に尽力されていた。残されたブログの記事を読むと、TBSブリタニカから出版された「パソコン創世記」をめぐっては、いろいろ残念なことがあったようだ。だから富田さんとしては、「是非青空文庫で読んでください」と思われているかもしれない。

「パソコン創世記」の内容について、簡単に紹介しておくと、日本電気を中心に当時日本で起こった出来事が、きわめて詳細に、膨大なリファレンスとともに記載されている。PC-100について詳しく書かれたものは、メディアを問わず他では見たことがなかったし、日本電気が独自開発したBASICを持ちながら、マイクロソフトBASICのライセンスを受けるに至った経緯が書かれている。PCの黎明期について、海外の書籍を読んでもほとんどまったく日本のことは出てこない。唯一、「ケイ」と呼ばれマイクロソフトの副社長を勤めていた西和彦氏のエピソードがでてくるくらいだ。国内でもパーソナルコンピュータの可能性に気がつき、素晴らしい物作りをしていた技術者がいたことが、「パソコン創世記」を読むとわかる。しかし、それらは会社の壁から外には出てこなかった。TRONの坂村氏は、「海外では勝ち馬を作ろうとする。しかし、日本は勝ち馬に乗ろうとする」と文化の違いについて触れている。日本は、スタンダードを作ることができたが、できなかった。その歴史に学ばなければならない。

このブログに書いている記事は、以前は投稿ごとに参照している文献のリンクを置いていたが、どんどん調査の範囲が広がるので、面倒になり、今は省略している。その代わりに「参考情報」として、Aamazonへのリンクをまとめており、記事を読んで興味を持った人があれば、概要を確認したり、購入しやすいようにしている。参考情報は、いずれ作成年次順など分類しようと思っている。

9/25/2015

Bill Atkinsonが2004年に来日していたとは!

「Macintosh Museum」を読んで、Bill Atkinsonが、2004年に来日して講演していたことを知った。なんてこった!

  • http://japan.cnet.com/interview/20067363/
  • http://www011.upp.so-net.ne.jp/PARK/hclinks/Bill_lecture.html
  • http://www.hirax.net/keywords/log/%E3%83%93%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%88%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%B3/latest

9/24/2015

ジョブズは世界をどう変えたか

答えは、人によって変わるだろう。「ジョブズとアップル奇蹟の軌跡」の章立てが、ジョブズの功績と重なって興味深い。

  • パーソナルコンピュータを誕生させたApple II
  • 直感的でわかりやすいGUIを標準にしたMacintosh
  • WWWとフルCG3Dアニメを世に送り出したNeXT and pixar
  • デザインがいかに重要かを証明したiMac
  • UNIX+GUIの強力な組み合わせを実現したMac OS X
  • スマートフォンの標準を確立したiPhone
  • 誰もが使える魔法のタブレットを実現したiPad
  • クリエータが個人で活躍できる時代を切り開いたApp Store

リアルモバイルになり損ねたポメラDM100の残念さ

「どこでもテキストを編集できたら良いな」と思って、調べていたら、KING JIMUが販売しているポメラが急に欲しくなり買ってみた。

ポメラは、単三乾電池二本で稼働し、データ保持用にボタン型電池を使用する。これは、HP-200LXと同じ構成で、モバイル用途を追求するとこの形になる。 やや小ぶりながら、キーボードが付いており、使わないときは閉じておける点もHP-200LXと同様だ。

現代のデバイスらしく、液晶は「5.7インチ TFTモノクロLCD、SVGA(800×600ドット)、バックライト搭載」で、 128MBのフラッシュメモリを搭載している。その他にATOKと電子辞書も「自分でインストールしなくても」利用できる。 キーボードは、マニアックにも「親指シフト」に切り替えても使えるらしい(親指シフトモデルがあるわけではなく、 設定で切り替えて、キートップにはシールを貼って使用する)。128MBをテキストで埋め尽くすのは大変だが、 SDメモリスロットもあるので、死ぬまで書き続けても問題ない。書いたものは、母艦に取り込みたくなるわけだが、 それについては、USBケーブルの他、ブルートゥースに対応しているし、テキストをQRコードで表示して、 スマートフォンの専用アプリで(画像として)読み込むこともできる。 液晶はバックライト対応なので、自分で工作しなくても夜でも使える。

ここまでは、まさに「言うこと無し」だが、実際に使ってみて2つの致命的な問題を発見した。

  1. 「ファイラー」がない
  2. スクロールバーやそれに相当するものがない
  3. オートパワーオフの際に「電源をオフしています」という残念なメッセージが表示される
  4. ATOKの設定画面が(ほとんど)ない
  5. 内蔵されているGENIUSがサブセットすぎる
  6. カーソルをブロックにできない
  7. PgDown/PgUpキーがない
「ファイル」の概念はあるので、メニューから「ファイル」を呼び出して、開いたり、保存したりできるけれども、 全体の行数表示がなく、HP-200LXやDOS窓的なファイル一覧機能もない。スクロールバーや「画面に表示されているのは全体の何パーセント」的な表示機能がない。 書いたものを確認するには、カーソルキーで先頭に行き、それから末尾(スクロールしなくなるまで)に移動する、あるいはAlt+上下キーでページを上下するしかしない。おかしい。 長い文章を書いていると、気持ちが悪い。これはつらい、というか致命的だ。一体何を考えているか‥。

ハードウェアのスペック的にはまさにリアルモバイルであり、モバイルの理想を具現化したような端末だ。 しかし、ソフトウェアが残念過ぎる。この端末を設計した人に、HP-200LXを見せてあげたいと思った。

9/22/2015

BASICとは?

BASIC(ベーシック)は手続き型プログラミング言語のひとつ。 名前は「beginner's all-purpose symbolic instruction code」(「初心者向け汎用記号命令コード」を意味する)の頭字語である。

引用元: Wikipedia

  • http://inexorabletash.github.io/jsbasic/
  • http://www.quitebasic.com/prj/puzzle/towers-of-hanoi/

9/16/2015

昔、日本には「国民機」があった

脇英世さんの「ビル・ゲイツの野望」がとても面白かったので、脇さんが書かれた本を調べて、新たに「パソコン世界の嵐」と「IBM 20世紀最後の戦略」を購入した。 「ビル・ゲイツの野望」にゲイツについて、他の書籍にはないことが多く書かれていて不思議に思っていたが、「パソコン世界の嵐」を読んで納得した。 脇さんは日本電気(にっぽんでんき)の高山取締役(当時)と一緒にゲイツと会ったり、パソコン黎明期の日本で日本電気はじめ各社の相談をされていたようだ。 「IBM 20世紀最後の戦略」にも、1990年に古川氏から頼まれ、ゲイツにインタビューを行ったときの様子が書かれている。

「パソコン世界の嵐」の刊行は1993年となっている。これは、まさに「パソコン世界の嵐」のまっただ中、これからどうなるかわからない、 言ってみれば途中の時期に書かれている。はっきり言うと古い内容になっているが、当時の世界がどう見えていたかという観点でとても興味深かった。

冒頭書いた、ゲイツとの面会は、高山取締役に「絶対何も発言しないように」という条件で、同行したもので、それは実は「OS/2を見捨てないで欲しい」という お願いで、その約束の証人としてだったということが後でわかる。 当時、日本はどんな状況だったかというと、「日本電気のPC9801がほぼ完全に国内のパソコン市場を掌握」していた。 PC9801は、「国民機」と呼ばれ、企業、大学、ほとんどあらゆるところで使われており、「毎月10万台が売られており」当時は誰もそれが続くと思っていた。 しかし、盤石と思われたその支配は、「日本で使われるPCには日本語版OSが必要」という前提が崩れ、今や日本電気は一メーカになってしまった。 当時を経験していない人には想像ができないと思う。 森が動いたのだ。

それにしても、と思う。高山氏が脇氏を同行してゲイツと直談判したのは、「トップ会談」ということだと思うけれども、いかにも日本的で、 ゲイツには不可解だったことだろう。「アイデア・マン」には、ゲイツが来日した際、「アレンとともにある日本の企業(おそらく」に接待を受けたことが 書かれている。ゲイツ達は「女性がいるところが良いか、美食が良いか」と聞かれ、アレンは「ゲイツは女性のいるところを希望するだろうと 思いながら、美食と回答した」と書いている。そして二人は、「6000ドルの夜食」をご馳走になり、ゲイツは「アレンに信じられるか?」とささやいたようだ。

NECが動かないと思っていた森を動かしたのは、OS特に日本語化、今日で言うところの「グローバル化」だ。 それについてトピックの一つとして追加しようと思う。

「パソコン世界の嵐」に、1992年11月9日に、日本電気が日本経済新聞に出した「意見広告」のことが書かれていた。 いろいろ探したが画像が見つからないので、本文を引用する。

「98は、問う。
日本で使うパソコンは、どうあるべきか。98は、事実をもってお答えします。

1. ソフトが少なくて、使えますか?
●98の事実 98ソフト 14,500本 (DOS/V日本語対応ソフト約800本)
      ソフト提供会社 3000社
      関連出版物 750冊
●98は、パソコンもソフトがなければただの箱と考えています。

2. サービス・メンテナンスが不安で使えますか。
●98の事実 全国展開のNECマイコンショップ 339店
      全国展開のNEC PIプラザ 422社
      全国展開のサービス拠点 379ヶ所
      全国展開のパソコンスクール 受講生年間4万人
●98は、サービス・メンテナンスも性能だと考えています。

3. 日本語が使いにくくて、平気ですか。
●98の事実 日本語ソフトの適した基本設計 FDD×2またはFDD×1+RAMドライブ
      高速日本語表示
      一貫したキーボードレイアウト
      カラー文化を支えるTFT液晶
●98は、右ハンドルパソコンであるべきだと考えています。

4. みんなに愛されているのは、なぜでしょう。
●98の事実 出荷累計 576万台
      国内メーカ別シェア 53.1%
      十年間徹底した資産継承
●98は、最新の技術で最大の満足を提供し続けます。

ありがとう十周年。これからも98。
NECグループ

「パソコン世界の嵐」は、1993年5月に刊行されている。当時の状況について、カバーに書かれた説明が参考になる。

天王山を迎えたパソコン戦争の内情に鋭く迫る。NECが過半を押さえる日本のパソコン市場に米国メーカ-が進出し、熾烈な低価格競争が始まっている。 ダウンサイジングの波に直撃されたIBMが史上最高の赤字を出すなど、コンピュータ業界は揺れに揺れている。パソコン戦争の明日を読む書き下ろし文庫。

9/14/2015

忘れられたもう一人の生みの親

「Macintoshを創ったのは誰か?」と聞かれたら、多くの人が「スティーブ・ジョブズ」と答えるだろう。 しかし、「Macintoshの名付け親は誰か?」と聞かれて、わかる人は少ないだろう。 答えは、ジェフ・ラスキンだ。しかし、文献を調べると、ラスキンはただの名付け親ではないことが わかる。少なくともMacintoshプロジェクトの生みの親であるのは間違いない。 でも、それも不十分だ。

ジョブズがXerox PARCを訪問して、「これは宝の山だ」と興奮して、開発したのがMacintoshだと 言われている。そのことはもちろんアイザックの「スティーブ・ジョブズ」にも書かれている。 しかし、そこにはなぜジョブズがPARCを訪れることになったか書いていない。

それについて、「マッキントッシュ伝説」のジェフ・ラスキンのインタビューに書かれている。

  • ジェフはApple IIのマニュアルを手がけたことがきっかけで、ジョブズに誘われ1977年会社ごとアップルに移った(ジェフはシリアル0002のApple IIを持っている)
  • それまでのマニュアルは技術用語と命令口調で書かれていたが、ジェフは理解できる言葉でマニュアルを作成した
  • 製本は、操作をしながらマニュアルを読めるよう、背綴ではなくリングを用いた
  • カラー写真を用いた(当時のコンピュータ業界では広告以外にカラー写真を使うのはまれだった)
  • ジェフは、アップルが力を入れて取り組むべきことは「アプリケーションの品質である」と考え、会社に「ソフトウェア製品の品質管理セクション」を作ることを提案した
  • 1979年、ジェフは会長だったマイク・マークラにMacintoshという製品のアイデアを話した。よく知られているようにこれはジェフの好きだった林檎の名前に由来する
  • ジェフのMacintoshプロジェクトは社内で理解が得られず何度もつぶされそうになる、そこでジェフは、教え子であったビル・アトキンソンと画策して、ジョブズをPARCに行かせた

ラスキンはそうした経緯を説明した後で、「ジョブズがPARCで触発されてLisaとMacintoshのプロジェクトをスタートさせたというのは、まったく作り話で、それが 確認されないままいろいろな書物に引用された」と語る。そして、結局、ジョブズはラスキンを追い出し、ラスキンはアップルを退社することになる。 このエピソードは、同じ「マッキントッシュ伝説」に掲載されているジョアンナ・ホフマンのインタビューとも符合する。

ラスキンに関する情報は少ないが、「実録!天才プログラマー」にもラスキンの詳しいインタビューが掲載されている。 ラスキンは、Apple IIe用にSwiftCardと呼ばれる製品を開発した。 SwiftCardは、「わずか15のコマンドと64バイトのコードで、ワードプロセッサ、情報検索、テレコミュニケーションを装備したパッケージ」を目指したという。 SwiftCardはシンプルさを追求したユニークなシステムで、たとえばファイルを消すということをしない。 SwiftCardについて、ラスキンは「われわれは、古くさいアップルIIe、つまり、1メガヘルツのプロセッサで実行するプログラムをつくり出した。 しかし、このプログラムのユーザにとっては、IBM, マッキントッシュ、メインフレーム、スーパーVAX等よりもアップルIIeの方が実行速度は速いわけです」と 語っている。これは、人間が同時に行う作業は一つで、その作業に専念させるための能力は低くて良いということを言っているのだと思う。 それは逆に言えば、とてつもなく発達した現在のPCは無駄にその能力を使っている、ということと同じだ。 SwiftCardを体験することは今となってはできないが、多分、HP200LXにつながるものがあったのだろうと思う。と書きながら、HP200LXの クロックはいくつだっけ?と気になり調べてみたら80C186(クロック周波数7.91MHz)だった。

WindowsもOSXもLinuxも、UNIXの階層ディレクトリの流れを汲んでいるが、SwiftCardはOSがなく、ユーザがファイルシステムを意識することもない。 2015年の現在もそのユニークさを失っていない。 ラスキンが残した、"Humane Interface"という本をいつか読んでみたいと思う。

ラスキンは2004年に亡くなっている。死因は奇しくもジョブズと同じ膵臓ガンだった。

9/11/2015

二人のジョブズのHPの思い出

WozはHPのエンジニアとして働きながら、Apple Iを作った。 Wozは、「アップルを創った怪物」で「ヒューレット・パッカー時代」という章を設け、HPについて書いている。

HP社は、スタンフォード大学を1934年に卒業したビル・ヒューレットとデイブ・パッカードが1939年にガレージで立ち上げた会社だ」

上の写真の後ろのガレージがその有名なガレージだ。

HP社では、管理職にならず、ずっと現場でキャリアを積むことができる会社で、実際年上のエンジニアで管理職になっていない人が何人もいたと書いている。 WozはHPで約4年間働いており、電卓回路とその設計に関する仕事をしていた。具体的には、電卓用プロセッサーを公安したエンジニアが書いた図面をチェックし、チップの改良をしていたという。 HPのエンジニアには、飛行機の操縦免許を持った人が多くいて、驚いたことにときどき小型飛行機でお昼を食べに行っていたという(ウォズも免許を持っており、 後年事故を起こしている)。

ジョブズは、「ロスト・インタビュー」の中で、12歳の時にHPで働いた経験について話している。 あるときジョブズは、電話帳を見て、創業者の一人、ビル・ヒューレットに電話をかけた。

「こんにちは。僕はスティーブ・ジョブズと言います。あなたは僕のことを知らないと思いますが、僕は12歳で周波数カウンターを作っていて、予備の部品が欲しいんです。」
ビル・ヒューレットは、12歳の子供からの電話に20分くらいつきあい、部品をくれた上に夏休みの間、ジョブズがHP社で働けるよう手配をしてくれた。 ジョブズにとって、会社について学ぶ初めての機会であり、会社とはどのようなものか、HPが従業員を大切にしていることを知ったと話している。 「当時は誰もコレステロールのことを知らなかったから」という前書きをつけて、ジョブズはHPが毎日午前10時になる(ウォズは午後2時にもあったと書いている)と大きなカートでコーヒーとドーナッツが 運ばれてきて、みんなでコーヒーを飲み、ドーナツを食べたと懐かしんでいる。

ジョブズはインタビューで、「一つのきっかけが次へとつながっていって」として、一本の電話から、ジョブズが毎週火曜の夜にHPの パロアルト研究所の実験室に出かけ、研究者に会ったり、そこで世界初のデスクトップ型コンピュータHP9100を見たりした、と話している。 ジョブズはそこで、BASICやAPLでプログラムを書いて何時間も過ごしたという。そして、そこでジョブズはウォズに出会う。

ジョブズのスタンフォード大学のスピーチ、2番目のストーリー、"love and lost"でジョブズは「なぜ自分が興した会社でクビになるのか?」と嘆いている。 人生をかけたものが失われ、茫然自失の状態となり、数ヶ月何をしていいかわからなくなったジョブズは、「デビッド・パッカードとボブ・ノイズに会って謝りたいと思った」と 言っている。 スピーチから、ジョブズが12歳の自分につきあってくれたビル・パッカードに感謝し、尊敬の念を抱き続けたことを感じさせる。

ここで賢明な読者は、「もう一人のボブ・ノイスは誰で、なぜジョブズは彼に謝ろうとしたのか」と気になるかもしれない。

もうひとつの "Think Different"

この動画は、かの有名な「Think Different」のCMだが、実際にオンエアされたものではない。 アイザックソンの「スティーブ・ジョブズ」では、第24章で詳しく説明している。

  • このCMは、アメリオが辞任した後、1997年にジョブズから「1984」を制作したリー・クロウに依頼された
  • 「テーマはプロセッサーのスピードやメモリーではなく、創造性だった」
  • ジョブズはクロウに、「アップルの人間も、アップルとはなにか、自分たちはどういう人間なのかがわからなくなっていた。それを思い出すきっかけには、誰が自分にとってヒーローなのかを考えて見るといい」と語った
  • 「彼らは人間を前進させた」など一部はジョブズが書いている
  • 実際に使われたCMは、リチャード・ドレイファスがナレーションをしているが、その他にジョブズ自身がナレーションをつけたバージョンも作られていた
  • オンエアの当日までどちらを使うか決まらず、両方のバージョンが出荷され、最終的にはドレイファスのものが使われた

アイザックソンは、このCMについてジョブズに取材したときのエピソードを書き残している。 ジョブズは、リーが深くアップルを愛していることがわかったと言い、「シンクディファレント」の素晴らしさに込み上げるものがあり、このCMのことを思い出すと泣いてしまう、と語った。 (アイザックソンがその話を聞いたときにも、「ジョブズは肩を震わせ、涙を浮かべた」とある)

ナレーションの内容に興味がある方に、DNAの記事を紹介する。

本ブログでは、アイザックソンの「スティーブ・ジョブズ」を多く参照しているが、日本訳を出版している講談社が、この本のためのリンクを用意していることをご存じだろうか。

上のリンク先ページの下部では、読者に限定せず一般に公開の形で、いくつかのPDFを配信している。その中に日本語版書籍に含まれていなかった「終章」がある。 アップルキャンパスで行われたアップル社によるジョブズの追悼式で、ジョブズ自身がナレーションを行った"Think Different"が流され、その説明で終章が終わっている。 特定の書籍のためにページを設け、終章などの文書をひっそりと配信することに、ジョブズに対する敬意を感じる。このページから書籍も購入できるが、ペーパーバック版も存在していたことは初めて知った。

9/10/2015

リンク集

  • http://dailynewsagency.com/2011/10/08/unaired-think-different/
  • http://jibun.atmarkit.co.jp/ljibun01/rensai/genesis/001/01.html
  • http://kogures.com/hitoshi/history/pc-os/index.html
  • http://blogs.wsj.com/digits/2011/08/24/steve-jobss-best-quotes/
  • http://scan.netsecurity.ne.jp/special/3039/recent/%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%96%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%96%E3%82%BA
  • http://retrotechnology.com/dri/cpm_presentation.html
  • http://www.theregister.co.uk/2011/10/06/steve_jobs_bio_1?page=1
  • http://book-sp.kodansha.co.jp/topics/jobs/#JobsPDF
  • http://scaruffi.com/politics/sv.html
  • http://www.macmothership.com/gallery/gallerytextindex.html
  • http://www.wordsonimages.com/search?q=steve+jobs
  • http://hp.vector.co.jp/authors/VA023355/history.html
  • http://news.mynavi.jp/column/svalley/550/
  • http://www.guidebookgallery.org/index
  • http://www.nydailynews.com/news/steve-jobs-1955-2011-gallery-1.966352

9/09/2015

運命のすれ違い

1974年、ゲイリー・キルドールは、インテルの8ビットCPU, 8080用にオペレーティングシステムを開発、販売した。 そのオペレーティングシステムが、CP/Mだ。これはALTAIR8800の半年前だというから驚く。 キルドールはその後、Z80など他のCPUにもCP/Mを作っていた。CP/Mは、8ビットパソコンの標準OSとして、高いシェアを獲得し、 キルドールはスポーツカーや個人用ジェット機を所有していたという。

IBMがパソコンを扱おうとしたとき、当然CP/Mを開発していたDigital Resarch社が浮かぶ。 しかし、IBMが実際に交渉したのは、マイクロソフトだった。 「新・電子立国1 ソフトウェア帝国」では、IBMは勘違いしてマイクロソフトに交渉に行ったと書いている。 NHKはIBMのジャック・サムズ、マイクロソフトのアレンとゲイツを訪れインタビューしているが、 それによると、

  • サムズは一年以内にIBM PC用のOSを必要としていた
  • サムズはマイクロソフトがCP/M用のBASICを販売していたことから、CP/Mを開発したのもマイクロソフトだと勘違いしていた
  • ゲイツはとても一年以内にOSを開発できないので、サムズにDigital Reseach社に相談することを薦める

キルドール自身が取材に応えて語っている。

ある日ゲイツから連絡があり、「IBMがマイクロソフトにきて、CP/Mをライセンスできるかどうか聞いている。 (IBMとの商談を逃したくないので)そちらを紹介した」と言った。 実際にIBMから連絡があり、IBMは打ち合わせを申し込んできたが、その日自分は用事があり、妻と話すように伝える。 IBMは約束どおりに訪問し、キルドールの妻と会うが、彼らはそこで話をする前に機密保持の契約書へのサインを求める。 それは、IBMとしてはごく普通のことだが、キルドールの妻はこれを拒否し、打ち合わせは成立しなかった。

キルドールは、仕事一辺倒ではなかったようで、CP/Mの売り上げで、スポーツカー10台以上、自家用ジェットも所有しており、 またアポイントが取れないので有名であったらしい。彼にとっては、巨人IBMも他と同じだったのだ。 IBMはなんとかキルドールと交渉しようとし、自宅にも訪れる。詳細な経緯は不明だが、 キルドールは「IBMはCP/Mのすべての権利を25万ドルで買いたがっていたが、それを断った」と述べている。 キルドール(Digital Research)にとって、CP/Mは稼ぎ頭で、それを完全に手放すことはあり得なかった。 その結果、IBMは再びマイクロソフトに相談することになる。

ゲイツとアレンは、キルドールとまったく逆で、なんとしてもIBMとの商談を成立させたかった。 しかし、一年以内にIBM PC用のOSを作れない、そこで、アレンが思い出したのが、 同じシアトルにあるシアトル・コンピューター・プロダクト(SCP)社の86-DOSだ。 86-DOSは、ティム・パターソンがCP/Mのクローンでティムが独自に開発していた。

ゲイツ、アレン、ケイ(西和彦)それにスティーブ・バルマーが集まり議論していたときに、 有名な西の「やろう」が出てくる。ペンキの塗り直しでもなんでも良い、とにかくやろう、 マイクロソフトはOSを提供しよう、ということになった。それで、のちのMS-DOSとなる。 Digital Researchはその後1982年にIBM PC用のCP/M-86を販売するが、MS-DOSを覆すことはなかった。

IBM PCがデジタル・リサーチでなくマイクロソフトにOSの開発を委託した経緯については、多くの書籍、Web、記事で、 「そういうことがあったらしい」と書かれている。そうなった主な理由は、当事者であるキルドールが、 みずから語っておらず、取材も受けていなかったからに違いない。 自分はこの内容について、アレンの「アイデア・マン」など信頼すべきリソースを参考にしていたが、 1997年にNHKスペシャルとして放送された「新・電子立国」のシリーズの書籍を読み、それが実際に 起こった出来事であることを確認した。NHKのクルーは直接キルドールにインタビューしており、 キルドール自身の「マイクロソフトはCP/Mを盗んだ」という言葉を映像と書籍に記録している。 NHKのクルーが取材を終えて、日本に戻る前に、キルドールは急死し、書籍にはそのときの新聞記事の画像が 貼られている。奇しくもNHKはキルドールの最後の取材者となったのだ。

Blogの構成を見直した

このブログは作成した後そのまま放置していたものを、講演のワーク用に使っている。 Bloggerの機能や設定がわからず試行錯誤していたが、最近、だいたい要領がわかってきた。 やりたいことはほぼできているけれど、投稿のurlの付与規則になじめない。

Bloggerで新しい記事を投稿すると以下のようにurlを作成するようだ。

  • タイトルから英数字以外と半角スペースを除いた文字列に.htmlを付与する
  • タイトルを指定しない場合、blog-post数字.htmlという名前にする
たとえば、「私はMacとAppleが好きだ!」というタイトルで新規記事を作成すると、それはMacApple.htmlというファイル名になる。 「私はアップルが好きだ」の場合、blog-post9.htmlのようになる。これはとても気持ち悪く、 そのくらいならすべてがランダムの数字のほうがましだ、と思う。

これはBloggerの機能で、タイトル名の他にHTMLファイル名を指定できるようにする、また、 投稿一覧の画面で「ファイル名変更」のインタフェースをつければ良いがそうはなっていない。 そこで、次のような方針で対応することにした。

  • url名をつけたい投稿は、タイトルにそれを記載する(.htmlを除いて)
  • 作成されたページを編集して、本当のタイトルに変更する
  • それ以外はurlのことは気にしないようにする
たとえば、ブログの説明はabout.htmlとしたいので、aboutというタイトルで空の投稿を行う。 参考情報は、これまで書籍、動画等分けていたけれど、referenceとすることにして、 referenceの投稿を作成、既存の投稿の内容をそこにコピーし、既存の投稿を削除した。 同様に講演の中で紹介しようと思っている動画は、moviesとした。

その他、これまで個別の投稿について文中で参照していた書籍のアイコンを置いていた。 これは内容に興味を持った人が購入等しやすいようにという配慮だが、 その作業も結構手間なので、やめることにした。一通り記事を書き終わったら、本当に興味を持った人が 調べられるようにreferenceを作成し、各投稿にはaboutとreferenceへのリンクを 置こうと思っている。

このブログについて

2015年6月、会社の同僚から10月に、ある大学で学生向けに講演してもらえないかと相談を受け、対応することにしました。 内容は基本的に任せるということで、若い学生のために参考になるような話をしたいと思って、準備を始めました。 「プログラムに掲載するので、とりあえずタイトルを知らせて欲しい」と言われ、何も決まっていないのですが、 「人生をより良く生きるためのプレゼンテーション入門(仮)」として、それ以来何を話そうか考えています。

比較的時間が長いので、就職活動の参考になる話を含め、複数のテーマについて話をしようと思い、技術的なテーマのひとつには ジョブズがスタンフォード大学の卒業式で行った講演を含めることにしました。 それで、参考書籍等情報を集め始めました。自分の講演準備は、伝えたいメッセージが整理できるまで、 ひたすら情報を集めるというもので、その間は形に残るアウトプットは何もありません。 書籍を読んだら、そこで紹介されていた書籍を入手し、著者に興味を持ったら、その著者が書いたものを調べる、 というようにとうてい講演に収まりきらない範囲まで、自分に情報をインプットする日々が続きます。 9月になり、自分の中に伝えたいメッセージや構成のアイデアなどが浮かんできたので、それを メモ帳あるいはワークペーパとして残しておこうとして、昔作成したきりになっていたBloggerを使うことにしました。

Bloggerの記事は「投稿」と「ページ」の2種類があって(ということは実はつい先日知りました)、前者は日付付きの urlがつきます。そこにテーマごとのワークを書きためていました。「投稿」はもともとブログ用のもので、 インデックスに相当するものがないため、「ページ」にインデックスを作成し、ブログのレイアウト機能を用いて、 各記事のタイトルからインデックスを開ける、そしてインデックスから「投稿」を開けるように(9/11)しました。 「投稿」を読むと(普通のブログのように)作業状況とワーク(メモ)が読めます。ある程度、まとまったものは、 「ページ」のindexでタイトルを見て読みたいものを開けます。本来想定されていない、一種邪道な使い方で、 多分Bloggerをこんなふうに使っている人はいないだろうと思います。

小説家が「小説を書き始めると登場人物が勝手に動き出す」というように、主題を調査して掘り下げていくと、 おのずと話がつながっていきます。今回のケースで言えば、ジョブズの講演から、PCの歴史と(今のところ) つながっています。果たしてこんな古い話を掘り返して意味があるのか、学生が興味を持つのかはわかりませんが、 ここでまとめている話は重要なことを含んでおり、価値があると自分の直感が伝えます。 その直感を道案内に自分のできる最善を尽くしたい、そう思いながら作業しています。 人生は限られているから。

movies

参考動画

「ビル・ゲイツの野望」を読んで

脇英世さんの「ビル・ゲイツの野望」を読んだ。この本は、1994年に出版されたもので、マイクロソフトについて書かれている (内容には関係ないが、カバーに歪曲したゲイツの顔写真が使われていて、持っていると呪われそうだ)。 あとがきにこんなことが書かれている。

材料は集まっても、なかなか速くは書けなかった。ものすごく消耗する仕事であって、一定のスピードでは進まなかった。完全に止まってしまうこともあり、またしばらくして、やっと先へ進めるということの繰り返しだった。

この本には参考文献のリストはないが、本文を読むと脇さんがどのくらい文献を集め調査をされたかが想像がつく。また、書かれている内容の正確さもわかる。なぜ正確さがわかるかというと、自分はこの本が書かれた後の資料を見ており、特にマイクロソフトについては、ポール・アレンの「アイデアマン」を読んでいるからだ。また、脇さんの本には、マイクロソフトの契約や裁判について、自分が知らなかった情報が含まれていた。たとえば、MITS社とマイクロソフトの契約は、ゲイツとその父親とアルパカーキの弁護士が作成したものである、とかALTAIR8080が表紙になった広告の写真は、実はALTAIRのケースだけで中身がなかった等々。

この一連の記事というかブログは、10月の講演に向けてメモ帳代わりに使っている。 最初は、ジョブズの足跡から始まり、PCの歴史、BASICとMS-DOS、マイクロソフトということで、再現なく調査対象が広がってしまった。 そろそろ講演のストーリーの検討を始めようと思う。

9/08/2015

ジョブズのこだわり (1)

上の画像は、文具王・高畑正幸さんの公式サイトの記事に掲載されているもので、クリックすると記事が開く。 SIMカードを取り出すための工具をこれほど美しくする必要はないし、利用頻度を考えると 同梱品とすることもない。普通はそう思う。 しかし、ジョブズはそうは思わなかったのだろう。 その理由を説明した文章を読んだことはないが、この工具を見るたびに、そこに込められた思いと意味がなんだろうと考える。

Apple IIの中身は、ウォズが一人で創り上げた。 ジョブズがしたことは、それをケースに入れ、エンブレムをつけた、それだけだ(そのときの様子は、「スティーブ・ジョブズの王国」に詳しく書かれている)。 昔、自分が月刊ASCIIのApple IIを見とれていたのは、別にそれを買ってプログラムを書きたいとか、ゲームをしたいということではなかった。 そこに普通でない何か、特別なものを感じ、惹かれていたのだ、と今わかる。 普通でないものを創り上げるには、とてつもないエネルギーが必要だ。まして、自分自身が手を動かすものでなければなおさらだ。

大人になった今も、Apple IIや初期のiPod、あるいはMacintoshの写真を見ると、そこに惹かれるものを感じる。 Apple IIの筐体は見飽きないし、青みがかったMacintoshの画面を美しいと思う。 ジョブズは多分、自分がそうしたくてしただけだろうけれども、彼が遺してくれたものはギフトのようだ。

参考情報

このブログの作成にあたり(あるいは今回の講義の準備にあたり)参考とした資料について、ここにまとめる。

動画

ジョブズについては、今回講演の話が来る前から興味を持ち情報を集めていた。その中に、NHKで放送された番組がある。 NHKは、ジョブズに関する番組をまとめたページを(放映後も)残し、ときどき更新もしているようだ。

-NHK スティーブ・ジョブズ特集|NHKスペシャル 世界を変えた男 スティーブ・ジョブズ

自分は、上のリンクにある番組のうち、「ジョブズ氏と米国西海岸文化」以外はNasneに録画している。 それをPSP goやVitaに転送して、時々見ていたけれど、講演の素材として使うことになるとは思わなかった。

上記のリンクにはないが、今年の6月8日に「BS世界のドキュメンタリー」のシリーズで、 「スティーブ。ジョブズvs.ビル・ゲイツ」がオンエアされている。そちらも視聴したが、自分のお勧めは「スティーブ・ジョブズの子どもたち」だ。 この番組では、ジョブズにスピーチを依頼した経緯と、講演後のジョブズのコメントが含まれている。

これらの番組は、NHKオンデマンドでも見つからず、見ていない人は再放送を待つしかないが、 NHK出版から出ている本「Steve Jobs Special ジョブズと11人の証言」を読むと、オンエアされていない部分を 含む情報が得られる。今回、自分も購入したが、もとの番組を観すぎていた?ので、逆にあまり参考にならなかった。

書籍

参考にした書籍について、Amazonのバナーを貼っておく。 書籍はもともと自分でしていたものに加え、参考になりそうなものがあれば購入していた。古書はAmazon等で安く購入できるが、 数が増えると費用、置き場所も馬鹿にならないので、図書館も利用している。 図書館は、自宅のある横浜市立図書館、職場に近い中央区図書館の他、港区立図書館を利用している。

9/06/2015

IBM PCが遺したもの

巨人は、その躓きも大きい

メインフレームの覇者であり巨人だったIBMは、PC(パーソナルコンピュータ)について、ひどく躓いた。

  • そもそもスタートが遅すぎた
  • PCの普及、ビジネスを予想できなかった
  • 自社で開発しようとしなかった
  • OS/2を普及させることができなかった
  • マイクロソフトとの契約に失敗した

歴史を振り返ると、巨人IBMはIBM PCという名前および標準を提供し、互換機メーカを育て、マイクロソフトに帝国を作らせたボランティアのようだ。 しかし、自分が目を通したあらゆる文献について、「IBMの出したPCがこれほど普及する」と予想した人はなかったらしい (ゲイツもアレンもジョブズも含めて)。

なぜ、IBM PCがそれほど売れたかわからないが、Wikipediaに面白いことが書いてある。

1981年のIBM PCに付属したオリジナルのキーボードは元々、開発中止となった$10,000のIBMコンピューターシステムのためにノースカロライナで開発された、当時最も頑丈で高品質なキーボードであった。

NHKの新電子立国のシリーズで、IBMの関係者が取材に答えて言っていた内容がこれに符号する。 「あまりに時間がなくて、ほとんど自社では製造していない。唯一キーボードくらいだ」。 IBMは、IBM PCの廉価版、PCjrという製品を出しているが、こちらは極めてへなちょこのキーボードで、そのせいもあってかほとんど売れなかったようだ。

参考

マイクロソフトの「したたかさ」

ポール・アレンの「アイデア・マン」から、マイクロソフトの契約について触れている内容を書いておく。

IBMとの契約

  • IBMはマイクロソフトに合計で43万ドルを支払う、その内訳は、
  • ソフトウェアをIBMのマシンに適合させる作業、テスト、コンサルティングに7.5万ドル
  • DOSに4.5万ドル
  • 16ビット対応各種言語のインタプリタ、コンパイラの開発に31万ドル

マイクロソフトは、DOSのライセンスをIBM以外のハードウェアメーカーに自由に供与する権利を持つことを条件に、IBMに対してコピーごとのロイヤリティを受けることを放棄する。 アレンは「IBMはこれに異議を唱えず、むしろ過去独占禁止法違反で提訴されたことからむしろ進んで同意した」、そして「この時の実に気前のいい態度を、IBMはあとになって激しく悔やむことになる」と書いている。 マイクロソフトは、この契約により、あらゆるハードウェアベンダにMS-DOSを提供し、のちにそれを足がかりにWindowsをスタンダードとすることに成功することになるが、 この契約をしている段階では、マイクロソフトは16ビット用のOSを持っておらず、IBMの提示してきた期限に向けて開発することも不可能だった。 そこで、アレンとゲイツはSCPに出向き、86-DOSに関する契約の修正を試みる。その内容は、「3万ドルを支払い、その額で今後一切追加料金なしで、マイクロソフトが自由にライセンスを使用できる」というものだった。 SCPの所有者であるロッド・ブロックは、金額を5万ドルとして、アレンと契約をするが、その時点では、マイクロソフトが86-DOSをIBMに提供しようとしていることを伏せている。 アレンは、それについて「騙し討ちに近いことだとわかってはいた。DOSは巨大な価値を持つ資産だとわかっていたのに、その価値からすればタダ同然の価格で自分のものにしてしまったのだ」と書いている(正直だ)。

MITSとの契約

アレンとゲイツがマイクロソフトを興すきっかけとなったのは、二人がMITSが開発したALTAIR8800用のBASICの開発に成功したからだ。 ALTAIRの生みの親であるMITSのエド・ロバーツは、自分自身でさえ何ができるかわかっていなかったALtAIR8800でBASICに動いたことに感激する。 アレンとゲイツは、MITS社に8080向けのBASICを販売することになり、最初は口約束だったが、アレンとゲイツは正式な契約を交わすべきだと考え、 要求条件をまとめ、ビルが地元の弁護士に書面を作成してもらう。IBMとの契約につながるその内容は、

  • MITSは向こう10年間、BASICを世界中で独占的に販売する許可、権限を得る代わりに、前金で3000ドルを払う
  • バージョンによりコピーあたり30ドルから60ドルを支払う
  • MITS社が他社にALTAIRと同等のコンピューターを製造するライセンスを与えた場合、そこから得られる収益を折半する
  • アレンとゲイツは、自分たちの作ったソフトウェアの周遊券を持ち続けることができ、MITS社を通す限り、そのソフトウェアに関係する契約を誰とも自由に結ぶことができる
  • MITS社は、BASICによる収益の増加のため最大限の努力をする、それを怠った場合、アレンとゲイツは契約を打ち切ることができる

この契約を見たエドは、「俺は君たちを信用している。今すぐサインをするよ。中身を読むつもりはない」と言う。 アレンとゲイツは、それを聞いて顔を見合わせる。アレンはこう書いている。 「エドを騙そうと思ったわけではないが、契約は間違いなく私たちに有利になるように作られている」。

アレンは、アレンとゲイツの会社にとって、はじめてBASICの契約を交わした瞬間が特別な瞬間であり、契約を交わした以上、二人のチームに 名前が必要と考えた、と書いている。そうして、つけられた名前が、「マイクロソフト」だ。 このマイクロソフトに有利な契約について、MITSは後に訴訟を起こす。しかし、弁護士が追加した最後の条項が二人を守り、MITSは敗れる。 マイクロソフトは巨人IBMとも裁判で争うことになる。

9/03/2015

スタンフォード大学伝説のスピーチのエピソードについて

依頼を受けた経緯

なぜジョブズがスタンフォードの卒業式でスピーチをすることになったか、その経緯について、 2012年1月7日にNHK BS1でオンエアされた「スティーブ・ジョブズの子どもたち」で紹介されている。

ジョブズに講演してもらおうというアイデアは学生たちから出た。 番組では当時生徒会長の一人だったジェニファー・スティーバーが語る。 ジョブズの名前があがったとき、メンバーから同意の歓声が上がった。 そして学生たちは正装して、卒業式の前日にジョブズを夕食に招いた。 ジョブズは黒いタートルネックで、「さっさと片付けたい」と、また「なぜ引き受けたのかわからない。何を話すかわからない」と言ったという。

想定外

「伝説のスピーチ」が想定外だった、というと驚く人は多いと思う。 番組の冒頭登場した当時の学生は、「サクセスストーリーをしてくれるのかと思った」と語る。しかし、 実際の内容は違った。

ジェニファーは語る。「始まった瞬間から信じられなかった。学費はお金の無駄だみたいに言うなんて」、と。 彼女は「怒りすら覚えた」し、「大学を中退したなんて唐突すぎる」と感じた。

準備

アイザックの本にジョブズがどのように講演を準備したか書いてあるが、 その内容は意外なものだ。

ジョブズは、どんな話をすれば良いかわからず、脚本家アーロン・ソーキンに相談しようと考え、 2月にアイデアを送る。しかし、アーロンは6月になっても何も言ってこない。 ジョブズはプレゼンテーションの内容は自分で考えるが、 果たして卒業式で何を言えば良いか思いつかず悩む。 最終的には、妻に相談して、書き下ろす。

後日談

「伝説のスピーチ」を終えたジョブズの様子について、前述の「スティーブ・ジョブズの子どもたち」で紹介されている。

ジョブズは、講演を依頼した学生たちにメールを書いている。

Thank you very much. It was really hard for me to prepare
for this, but I loved it (especially when it was over...).

All the best,
Steve

2010年6月、「もし、もう一度講演を行うとしたら、何か付け足したいことはあるか?」と聞かれたジョブズは、 下を向いて少し考える。そして、顔をあげて言う。 「たぶん、もう少し大きな声で話をすると思う。人生は儚いから。」

9/01/2015

日立・東芝・ソニーが参加しないCEATEC

定点観測サイトのひとつ、NEVADAブログに残念な記事が掲載されていた。

10月に開催されます日本最大の家電見本市(シーテック)ですが、日立・東芝・ソニーが参加を取りやめるとなっており、大手3社が参加しない見本市となってきており、もはや日本を代表するといえなくなってきています。

引用元: NEVADAブログ「風前の灯火(日本最大の展示会)」

2004年にCEATECで、「Linuxセキュリティ強化エッセンシャル」と題して講演を行った。 下はそのときのスライド。 SlideShareではわからないが、この講演ではFlashで作成したアニメーションを PowerPointに埋め込んである。

What was NeXT?